■小説 上原半兵衛剣客列伝 秋山小兵衛の巻
武之介は、呆気に取られた。
師匠の半兵衛が、突然「下女を一人、雇い入れよう」などと、言い出したからだ。
もとより、閑古鳥の鳴かない日は無い、と近隣の者にも陰口を叩かれているこの道場に、そんな余禄があろうはずはなかった。
「そんな必要はございませんでしょ、伯父上様」
歌代は、半兵衛の妹の娘。つまり姪である。武之介が何を言っても火に油の半兵衛だが、この可愛い姪っ子の言うことなら、時には聞くことも無いではない……
だから、武之介は、余計な口出しはせず、黙っていた。
「もし、わたくしがお嫁に行ってしまっても、家事はみんな武之介さんが、引き受けて下さいますわ」
武之介は、思いっきりずっこけた。
「ええい、そうではない。下女を雇いたいのじゃ、下女を。関屋村出身で年は十九、舟が操れて、名はおはると言うのが良い」
「はぁ?」
武之介と歌代は、顔を見合わせた。
この気まぐれな師匠がおかしな事を言い出すのはいつものことだが、今度ばかりはわけが分からない。そんな二人の当惑を知ってか知らずか半兵衛は、
「ま、そこまで注文が多くては、難しいじゃろう。が、忘れてならんのは、器量が良くて抱き心地が良く、ピチピチしとるということじゃろうなあ。はっはっは」
「そ、それって、下女ではなく、妾とか言いませんか、師匠……」
「ばかもん、雇うのは下女じゃ。その下女と好い仲になり、先生なんぞと甘い声で呼ばれ、やがて乞われて本妻に……うっしっし」
それから半刻の後、武之介はなぜか釣り竿を持って大川端に立っていた。
道場の財政難を楯に、歌代にこんこんと諭された半兵衛は、しぶしぶ下女の話を取り下げたが、その代わり、
「今日の夕食は、鯉の洗いと味噌煮が所望じゃ」
「鯉だなんて。そんな贅沢をするお足は、ございませんわ」
「何のために武之介がおるのじゃ。百本杭はすぐそこじゃぞ」
という次第である。
本所横網町の百本杭は、人にも知られた鯉釣りの穴場で、道場からは程近い。
半兵衛は、手ずから料理するのだと言って、張り切って、包丁を砥いで待ち構えているという。わけは分からないが、釣らないことには、帰ることもできない。
「あぁぁ、俺って、なんて不幸なんだっ」
嘆きながら、半ばやけくそで竿を振るう。しかし、釣りといえば子どもの頃に、池の小鮒を釣った覚えがあるくらいの武之介である。たちまち手元が狂って……
「ばっか野郎、どこぃ目ぇつけていやがるのさ。危ねぇじゃねえかよ」
襟首に針を引っ掛けれられて、若い娘が威勢のいい啖呵を切った。
顔立ちが幼いから若くも見えるが、歌代の普段着よりもずっと渋い、よろけ縞の単を無造作に着こなしていて、年の頃は分からなかった。
「あっ、も、申し訳もござらん……」
慌てて針を取ろうとするが、気ばかり焦ってなかなか取れない。釣り針には返しがついているから、容易には外れないのである。
なおもいきり立とうとする娘をなだめるように、そばにいた三十前後の浪人者らしき侍が立ち上がり、無骨な手で器用に針を外した。
「釣りは、はじめてでござるかな」
「は、はい。お恥ずかしい」
成り行きで、問われるままに、師匠に命じられて、鯉を釣らねば帰ることができないのだと語る。
「それは、ご難儀な。差し出がましいようではござるが、拙者の鯉をお分け申そうか」
「えっ、本当ですか、それは助かりますっ。でも、あの、いかほどで……」
金はあまり持ってきていない。大体、あたりまえに鯉が買えるだけの金があったら、こんなところで釣りなどすることはないのだ。
「いや、いや。武士は、もとい釣り師は相身互い……」
浪人が言いかけるのを遮るように、娘が、
「回向院の焼き団子」
と言った。
団子なら一串四文。安いものだ。回向院はすぐ近くだし、武之介も嫌いではないから、喜んで承知をしたのだが……
浪人は、甘いものは好まぬらしく、一人茶ばかりすすっているが、娘ときたら、団子を五皿も平らげて、ちゃっかり甘酒の代わりまで頼んでいる。
呆れ返る武之介に浪人は、
「なに、団子と甘酒で幸い。これが酒だった日には、目も当てられぬ」
大真面目に言った。
「しかしまた、どうして貴殿の御師匠は、急に鯉をご所望になられたのかな」
どなたかご病人でも、と言ったのは、鯉の生き血は大変に精の付く薬とされていたからだ。
「いえ、それが、わたしにもわけがわからないのです」
武之介は、事の経緯を、事細かに語った。
浪人は、はたと膝を打って、
「そういえば、そんな話を聞いたことがある」
意外な返事だった。
「昔……と言っても、拙者が生まれる少し前くらいのことだが……秋山小兵衛様と仰る老剣客がいらしたのだ。確か、そう、おはるとか申す、下女上がりの若い娘を女房にして、鐘ヶ淵辺りに隠棲されて居られたとか。天狗の生まれ変わりとまで言われたほどの名人だったが、美味いものには目が無く、時には手ずから包丁を握るような、茶目っ気のあるお方でもあったと承っている」
「なるほど……」
そんな話をどこかで聞き込んできた半兵衛師匠が、その真似をしてみようと企むことは、大いにありそうなことだった。道場をたたんで隠棲するなどと言い出さなかったのが、まだしもというところだろう。
「いや、本当に、おかげで助かりました。ありがとうございました」
丁重に礼を言って、尻に根が生えたように、まだ立ち上がろうとしない娘のために、いくらか余分の金を置き、鯉をもらって武之介は帰途についた。
「ねえ旦那。そんなじいさまと若い娘さんが一緒になって、うまくいくものかよ?」
「さあ、な。人には、いろいろあるからな」
「ふうん。……周庵先生は、ご新造様をもらわないんだろうか」
そんなやり取りが、遠ざかっていく。
半兵衛が作った鯉料理は、ひどいものだった。
やけに泥臭く、血生臭く、おまけにおかしな苦味があった。
「まったく、武之介もひどい鯉を釣って来おったものじゃ」
あくまでも、自分の料理の腕のせいだとは、認めぬつもりらしい。
武之介は、あえて反論はせず、もくもくと飯ばかりを口に運んだ。
歌代は、呆れて鯉には手をつけず、どこへか逃げていってしまったようだ。
「た、助けてくれぇっ」
不意に男の悲鳴が聞こえて、道場の門前が騒がしくなった。
「むう、何事じゃ!」
すわこそ、と半兵衛が張り切って飛び出していく。
胸のうちでは、これが女の悲鳴だったらなお良かったのに、などと思っているに違いないのだが。
「助けてくれ。わ、悪いやつらに……」
半死半生の有様で転がり込んできたのは、いかにも小博打でも打っていそうな職人風の男で、これもあまり誉められた手合いとは見えない。そして、それを追って、息を切らしながら駆け込んできたのは、いかにも当世風の派手な衣装に、拵えは豪華だが華奢な刀を差した、どこかの旗本の冷や飯食らいらしいのと、それの腰巾着らしき浪人が一人。武士という身分をわきまえるどころか、それをかさにきて悪行を重ねる、武士の風上どころか、風下にも置きたくはない、やくざな輩だ。
「助けてくだせえ。俺ァなんにもやっちゃいねえ」
「黙れ、貴様が昔、掏りをしていたことは分かっている。その腕を使って、俺たちにいかさまを仕掛けたろう」
「そんな、言いがかりでさぁ」
職人風の男は、哀れっぽい目でちらちらと半兵衛の顔を見ている。
切羽詰って、武術を教える道場に逃げ込めば、腕の立つ者がいて、あるいは助けてもらえるかと、飛び込んできたのだろうが、よりにもよってここを選んだのは、彼にとってもこちらにとっても不幸なことだったと武之介は思った。
なにしろ、半兵衛師匠が、まともに誰かと立ち合っているのを、武之介は見たことがない。かく言う自分はといえば、そういう荒っぽいことよりも、家事全般の方が得意という男だ。
「師匠、相手にしちゃ、いけません。所詮、やくざ者同士の喧嘩ですよ。関わり合いになっては……」
「何ぃっ。天下の直参旗本である我らを、やくざ者呼ばわりは聞き捨てならん」
かえって、事を大きくしてしまったようではある。
もとより半兵衛が、武之介の忠告を聞き入れるなんて事は、あるはずがない。
半兵衛は、職人風の男をかばうように、ずいと前へ出た。
しかし、変に年より臭く腰を屈めたりしているものだから、重石の効かないことこの上もない。秋山小兵衛という剣客は、大変な矮躯であったらしいから、その真似をしているのだろう。
「なんだ、じじい」
「おれは、秋山小兵衛というものだ」
言って、にんまりと笑ったまでは、芝居も上出来だった。
ゆっくりと刀を抜き、構えもせずにだらりと下げて、こちらもすでに抜刀している冷や飯食いに、余裕の面持ちでつつと迫る。そんな仕草も堂に入っていて、半兵衛、なかなかの役者である。
ところが、何か仕掛けてくるかと思いきや、冷や飯食いは、
「おい」
腰巾着浪人に声をかけて、自分はさっと後ろに下がってしまったから、少し調子が狂った。
しかもその腰巾着浪人、懐手のままにやにや笑って、
「秋山小兵衛というじじいなら、三年ほど前に死んだはずだがね」
と言ったのだ。
「なんだって?!」
思わず、武之介は言った。
鯉の浪人は、どう見ても三十前後だったが、彼は、秋山小兵衛を、自分が産まれる少し間くらいにいた老剣客だ、と言っていたのだ。
半兵衛も、むうと唸って、
「秋山小兵衛殿は、安永の頃の剣客と聞いて居ったが……」
と言った。
「はっはっは、そいつは間違いだ。その頃にはもう、秋山小兵衛もじじいになって、隠居を決め込んでいたのだからな。剣客として活躍したのは、もっと前のことさ。しかし、やつの羽振りが一番良かったのは、確かにその頃かもしれないな。時の老中で田沼様というのと、親しくしていたそうだから。その田沼様が失脚して、秋山小兵衛も完全に剣術界からは身を引いてしまったが、つい三年前まではしぶとく生き残っていたというわけだ」
「あのう、あなたは、秋山様のご親族か何かなので……?」
もし、そうだったら嫌だなと思いながら武之介が聞くと、浪人は露骨に嫌な顔をして、
「馬鹿を言え。あいつは、俺の親父の剣の命を絶った、憎い仇なのだ。いつか、どうにかしてやろうと思いつつ、果たせぬうちにやつは死んでしまったから、同じ名を名乗る貴様で我慢しておいてやろう」
言って、ぎらりと刀を抜いた。
半兵衛は、怪鳥のように跳……ぼうとしたらしい。
しかし、天狗の生まれ変わりなどではない半兵衛には、所詮無理な技だった。
わずかに、ぴょん、と飛び跳ね、
「わったった……」
たたらを踏んだ。
そこへ、容赦なく浪人が斬りかかったものだから、
「あぁっ」
思わず悲鳴をあげて武之介は、たまたま近くにあった乳切棒を引っつかんだが、今更間に合うものではないし、倒す自信もない。
幸いにも半兵衛は、かろうじてその斬撃を躱わし、
「待て、待て待て待て。わしは当道場の主、上原半兵衛。実は、秋山小兵衛殿とは、なんの関わりもないのじゃ」
焦りまくって、そう弁解したが、浪人はにやりと笑って、
「おんなじことさ」
唸りを上げる、二度めの斬撃。
武之介は、棒を握り締めたが、動くことができない。
こんな時、歌代さんがいてくれたら……。冴えないことを考える。
さすがに、芝居どころじゃないと悟った半兵衛の背が、しゃんと伸びた。僅かに、体を左にさばく。半兵衛の刀がどう動いたのか、武之介には分からなかった。
しかし、浪人は、一瞬驚いたような顔をして、ゆっくりと前にのめった。
「ひょぉーっ、ほっほっほ。どうじゃ、参ったか!」
得意顔で半兵衛が、浪人に刀を突きつけるのを、武之介は、
(うそだろぉ……?!)
ぽかんと口を開けて見ていたが、はっと我に返って、これも呆然と突っ立っている冷や飯食いに駆け寄って小手を打ち、刀を奪った。
だが、甲斐の無いことに、すべての元凶、ここへ逃げ込んできた職人風の男は、とうの昔に風を食らってどこへか消えてしまっていた。
「師匠……。まさか、本当に斬ってしまったんじゃ、ないでしょうね」
「ぶわっかもん。峰打ちじゃぁ、峰打ち!」
そこへ……
「ご近所の方々から、お煮しめや、お香々を頂戴してまいりましたわ。あぁ、もしかするといつものお食事よりも、豪華かもしれません~……って、お二人とも、一体何をなさっているんですの?」
なんにも知らない歌代の、のんきな声が聞こえてきたことであった。