◆お芝居情報◆

【放送日】1999/06/17 【お芝居】薮から恋

お江戸でござる オリジナルソング
曲名
作詞
作曲




●杉浦日向子のおもしろ講座●
江戸風俗研究家 杉浦日向子
加筆・編集・補足 長尾武之介



◆本日の間違い点◆

●和吉親分が十手をちゃらちゃら見せつけていた
お江戸でござるを毎週見ている方ならお気づきだったのでは?
岡っ引は十手を袱紗で包んで懐の中に入れておき、滅多に見せることはありません
身分を明らかにする必要がある時だけ「こういう者だ」ということで、見せるだけです。
あまりちゃらちゃらすると、みんなの信用を無くして、親分さんと呼ばれなくなってしまいます。


●両国界隈にしては、人数が少なかった
今回舞台になっていた両国界隈は大変繁華な町で、人が群集しているので、エキストラが40~50人くらい欲しかったそうです。
ま、これは予算の問題ですね。
両国(りょうごく)
両国橋界隈を指す。
橋詰めの広小路は江戸一番の盛り場だった。


●大江戸両国事情●

■回向院(えこういん)の勧進相撲■
両国は広小路(ひろこうじ)があります。
広小路というのは、元々火除け地として設けられた広場なのです。
(延焼・類焼を防ぐための広場というわけです。)
ですから、正式な建物は建てられません。
御上の命令があったらすぐにさら地にできるように、ああいった仮設の建物しか建てることが許可されませんでした。
それなのに、それほどの人が集まってくるということは、江戸中から集まってきたということですね。

勧進相撲,回向院
「勧進相撲」
東都歳時記3』より
(斉藤月岑著、朝倉治彦校注、東洋文庫、p42-p43、s47/11/10初版)

この絵は、有名な「回向院の勧進相撲」です。
五千人くらいの人が集まっています。
明暦の大火の時に十万をこす死者がでまして、その死者を弔う為に建立されたのが回向院です。
で、その回向院を中心に栄えた町が両国です。
勧進相撲は春と秋の二回、最初は八日間、後に十日間となりました。
一年を二十日で暮らすいい男といのは力士のことなのですね。
※番組内で杉浦先生は「春と秋」とおっしゃっておられましたが、東都歳時記を読んでみると「春と冬」と書かれておりました。
10月下旬から晴天10日間ということですけど、結構寒かったんじゃないのかなぁ。
勧進相撲(かんじんずもう)
寺社が修繕費などを集める目的で開催した相撲
回向院(えこういん)
明暦の大火後、犠牲者供養のため増上寺の僧によりこんりゅうされた。

回向院は、諸宗山無縁寺回向院(しょしゅうざんむえんじえこういん)というのが正式な名称です。
諸はもろもろの宗派の無縁の仏様を弔うお寺ということなので、災害(地震、火事、疫病)、行き倒れ、水死者、犯罪に巻き込まれてしまった人などをすべて平等に弔っておりました。
この他に回向院では、出開帳というものがありまして、全国の有名な神仏が出張してきて、特別公開してくれるのです。
江戸に居ながら、全国の有名神仏を参詣したのと同じようになるそうです。
出開帳(でがえちょう)
諸国の有名神仏を江戸市中の寺社において、出張公開すること
■大川の川開きと様々な船達■
現在、手元に資料がありません。
手に入り次第、掲載いたします。
「江戸名所花暦・夏」より

別な絵で代用します。
江戸名所図会 両国橋
「江戸名所図会 両国橋」
新版 江戸名所図会 上巻』より
(鈴木棠三・朝倉治彦校注、角川書店、P130-P132、S50/1/10)

回向院をつなぐ橋として隅田川の両国橋です。
江戸初期の頃、隅田川の東側を下総(しもうさ)の国と呼んでいたので、下総国と武蔵国を結ぶ橋ということで両国橋と呼ばれました。
両国橋の名の由来は武蔵と下総の両国を結んだ意による。
橋桁が大変たくさん立派に橋脚が描かれています。
屋根船,屋形船
川開きで、たくさんの船が繰り出しておりまして、小さい船が屋根船、大きい船が屋形船です。
若い衆が屋根の上に乗って長い竿で船をくっております。
川開きは吉宗の時代ですが、コレラや飢饉でたくさんの死者が出たときの鐘楼流しのような供養の為に行われたのがきっかけとなりました。

川開きは慰霊祭として始められた納涼の風物詩である
全国から芸人が集まって、興業しておりました。
また、広小路は誰の土地でもない公共の土地なので、税金もかからないし、自由な雰囲気のした所でした。

両国には、日に三千両ものお金が落ちると言われております。
朝は青物市場が開催されまして、市場でまず千両。
昼には橋のたもとにある広小路にある見せ物芝居小屋などで千両。
夜には納涼船で千両。
ゆえに日に三千両ものお金が落ちたと言われました。
当時、芝居町や吉原で日に千両ずつお金が落ちた、と言われていましたから、その三倍になるわけですね。
となると、両国は非常な歓楽地であったということが伺えます。

両国橋自体、九十六間という長さがありました。
(一間は六尺、1.82メートル。つまり九十六間は174.72メートルです。)
千住大橋の次に架けられた橋で、御入用橋(ごにゅうようばし)です。
政府が管理していて、橋番が橋の両端と真ん中の三カ所に設けられていて、橋の管理にあたっていました。

■参考文献■

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